先日の合宿で参段の審査を受けて昇段されたS.H.さんの審査用小論文を、許可を得て掲載します。(22/10/30更新)


「稽古とその普遍性について」


 合気道に出会えて良かったと心から思うことがある。それは転ぶのが上手になったというような表層的なことではない。 合気道をしていたからこそ得られた深層的な何かを感じることがあるためだ。

 私はあるエッセイの一節に強く惹かれたことがあった。『日本経済新聞』平成26年6月26日夕刊7面 山下柚実「音はごちそう」より引用する。

<引用開始>

「稽古」という二文字は奥深い。「昔の事がらを考える」ということから転じて「学習する」意味になった。 今の世の中で「おけいこごと」といえば、普段は手順や段取りを覚えたりスキルを身につけたりする事を指す。 しかし、「稽古」は「今」だけを問題にするのではなく、時を遡り、目には見えない先人の知恵や経験、練り上げられた身のこなしと感覚、 遊ぶ心や活きる哲学に思いを馳せ、「稽」(かんが)えることだった。

<引用終わり>

 この文章に対する共感は人により大きく異なるだろう。遠い他人の出来事のように感じる人もいれば、 自分のことのように強い実感を伴う人もいるだろう。私は強い実感を持つには至らなかったが、 すっと腹に落ちた感覚があった。そして、その感覚は合気道の稽古に由来することが理解できた。

 今日の社会において後ろから両手首を取られることはまずないだろう。 しかし、相手を感じて体をさばくという本質は全ての技に通じる最適化されたものだろう。 さらには、相手への敬意や感謝の気持ちも稽古の中に畳み込まれているはずだ。

 この記事を読んだ半年後にある論文が目に入った。エキスパートは下手な人を見ただけで自分も下手になってしまうという脳内プロセスに関する論文である。 著者は人間の脳は見ただけで動作に影響を及ぼすことを示した。

 人間は自覚なしに他者動作から自己動作を学ぶことができる。見取り稽古はたんなる見学ではなく脳の大事な稽古になっていることの裏付けだと理解した。 これも入門当時に師範や先輩の動きをみても体を動かすシーケンスとして受け取ることしかできなかった。 しかし、稽古を重ねると、動作を目で追いかけることが体の感覚に繋がっていることが実感できるようになってきた。 これもまた合気道を続けてきたおかげで得られた体験だろう。

 エッセイに戻ると興味深いことに山下はこの発見を茶道の稽古から得ていた。 この共通性には驚きと奥深さを感じざるを得ない。そして、この共通性こそが「稽古」というものの本質を示しているのだろう。

 練り上がられた動作には、体の動きのみならず先人の感覚と哲学が畳み込まれており、この先人の感覚と哲学は何かしらの稽古を通じてしか理解できないのではないだろうか。 いまの私は深層的な何かを感じているが、その何かを捉えあぐねている。それを理解できる日が来るかどうかは分からない。 でも、いつの日かエッセイを再読したときに強い実感と深い共感が得られる日がくるのではないか。そんな日を目標に稽古に励みたい。

 合気道に出会えて良かったと思う。一期一会に感謝しつつ、せめて人様に悪い影響を与えないよう努力したい。

 他人の主張 に依った文章ではあるが、これをもって私の合気道に関する感想文としたい。


   多謝

inserted by FC2 system